からだのブログ

五体満足に生まれてきたことに感謝してブログの名前を「からだ」にしました。

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Is Santa Claus really?

12月 7th, 2002 · No Comments · thinking

今日はサンタさんがほんとにいるのかどうか、大まじめに考えてみたい。
メルヘンでも何でもなく、科学的、哲学的に。結論から言っておくと「サンタさんを信じる心の中にサンタさんは存在する」。
これがメルヘンじゃなきゃ何だって? じゃあもう少し説明するから聞いて欲しい。まず、サンタさんがいるかどうかっていうのを考える前に、
定義しておかなければならないことがある。誰かがいる、もっと普遍的に事物が存在するってことの定義。こりゃ難しい。どう考えても定義
できない。何かを定義するには普通定義される対象が存在する前に、定義するための要因が存在していなければならない。これが正しければ、
事物が存在するってこと自体を定義することは誰にもできないはずである。

一般的に事物が存在するってことは、誰かによってその事物が知覚されるってことだって認識がある。しかしこれは先のことを仮に無視できたと
しても、おかしな話なのである。ある人がある事物を知覚したと本人が感じたとする。先の定義に従えば彼にとってはその事物は存在したことになる。
ところで、現在の科学が間違っていなければ、知覚するってことは脳みその中に特定の電気パルスが流れてるってこと。理論的には、彼がその事物を
知覚する事と、他の誰かによって彼の脳みそに直接電気パルスが流されることで、彼がその事物があったと知覚することは同じ事なのである。
私は今「この文章を書いている」と思いこんでいるだけかもしれないし、あなたも「この文章を読んでいる」と思いこんでいるだけかもしれない
のである。多くの人によって知覚されることが存在することの定義だと言うのも危険だ。多くの人によって知覚されたということを知るのにも、
自分自身でそのことを知覚するというプロセスを経ないと成り立たない。

そうして考えると、世の中(世の中、それ自身の存在確認ができないが)に存在してるって思っていたものは、何一つ存在していることを証明
できないことになる(だからといって、それが世の中に何もないことの証明になるわけでもないが)。ところで、近代哲学の基礎を築いたデカルトの
「われ思う、ゆえにわれあり」ってやつ。もしこの一文がデカルトによって記されたラテン語から日本語にされるときに、情報量が増やされたり、
失われたりしていないことを前提にするなら、どうやらすごく怪しいのである。「われ思う」ってのは明らかに受け身ではないから、先の
「他の誰かによってそう思わされている」という可能性について全く考慮していないからである。もしその可能性について考慮していれば、
「思う」ということの定義自体もあやふやになり、とてもそんな一文を残すことはできなかっただろう。

そうして考えてみると、世の中に何かが存在しているってことは、他人がどう言うかではなく、自分が定義する「事物の存在証明のための要件」を
満たしているかどうかを自分で判断する、それしかないのではないかと思う。もちろんサンタさんも自分がいると思えばいるのである。

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